2017-07-16 Sun
NHKラジオジャパンの大先輩。ラジオトウキョウ時代の最後の生き証人であり卓越した英語アナウンサーであった水庭進さんが、去る6月14日に亡くなられました。93歳でした。水庭さんは優れた俳人、辞書編纂者、エッセイストでもありました。ご冥福を祈ります。水庭さんは生前葬を大分前にやっておられ、水庭さん逝去の報は一応元英語アナウンサーに知らせるべきということになりました。
ところが、パートナーであった喪主の方が、いろいろ呼びかけているうちに次第に親族その他の方々も参加することになり最終的には50人ぐらいの方々が 6月28日(水)のお別れの会に参列されました。新宿落合斎場にて火葬終了後、参加者は送迎バスで墓地のある真言宗安養院へ。そこで法要、納骨を行い、その後院内で会食いたしました。
安養院の平井和成住職は火葬会場にもお見えになり読経して故人を見送ってくださいました。
ところで水庭さんの俳句が墓碑に刻まれているのを写真に撮りました。読みとその解説を書き込みます。

渓紅葉 明日は 釣られる 身でも良し 進
(たにもみじ あすは つられる みでもよし すすむ)
水庭氏のパートナーはこう解説されました。
水庭氏の墓石の句はご本人の解説を直接聞いたことがあります。
お元気な頃はよく只見(地名)の方の会津の谷を釣りまくって 居られたようです。渓流釣りは独りで行った方が 釣れますし、足場が悪かったり 崖をのぼったり 急流を横切ったり、結構危険な場所が多いのです。 それを猿のようにスルスルツ、と平気で山肌を登りくだりしておられました。
そのすばらしい渓谷を シーズンの初めの春先から 秋に釣りが禁止になる迄 暇さえあれば単独で夜っぴて スバルを走らせ 明け方を狙って釣りまくっていたようです。
”この句は 秋釣りに行くと… 燃えるような会津の渓間の紅葉がそれは美しく、すばらしい。
この美しい渓流で自分に釣られてヤマメやイワナたちは 命を奪われてしまっているけれど、
こんなにも美しい大自然の紅葉の中で 生涯を閉じることができるのなら あのヤマメやイワナたちのように明日釣られて死んでも悔いはない。”
墓石の俳句を書いてくださったのは 水庭氏の小学校のときからのガールフレンドで 水庭氏より10日年上の用賀にお住まいの方だそうです。 病弱のため生涯結婚もなさらなかったそうで、この度も出席できなかったのですが、水庭氏の生涯の友人だとのこと。まさに墓碑にぴったりの俳句でした。
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2016-12-27 Tue
12月25日日曜日、軽井沢大賀ホールで鈴木雅明指揮の「メサイヤ」を観劇。2016年はそろそろ終わりに近づいているが、今年の軽井沢は特別の年だ。そもそも軽井沢を発見した牧師アレキサンダー•・クロフト・•ショーが初めて軽井沢に現われて130年、そして彼の生誕から170周年でもある。ヘンデルのオラトリオは全曲演奏。洋楽に詳しくない自分がコメントする筋合いでは無いが、さすがよい音響で知られた大賀ホール。全体的に素晴らしかったと思う。しかし驚いたことが2つ。
実は使用されていた歌詞は全部英語だったこと。そして途中それがはっきりわからなかったこと。僕のような「英語屋」がこのお粗末。しかし手元に案内でもない限りなかなか聞き取れないのがこのような音楽で、帰りにやっと手に入れた英語歌詞を見てあっと驚いた。誤解の理由の一つには先入観がある。つまり、 さぞこのような曲はドイツ語であろう、など。もう一つは歌詞が古い英語であった事。キング・ジェイムス聖書のような古い訳を使ったと思われる。特徴としてYouの代わりにTheeとかThouが使われているなど。しかし、はっきり分からないにしても英語のように思ったところが数か所あった。これが面白いのだけれど、途中で聞こえてきた言葉。Peace on earth など。そしてさらにHe was despised。このくだりでははっと思った。キリストは当時の人たちから蔑まれたと言うことが歌われているのだ。しかし何度も繰り返されてやっとわかったのである。引き伸ばされると現在の英語とは違って聞こえる。そして関連で分かった事。どうやらオラトリオなどというものの歌詞の特徴は何度も同じことを繰り返していること。考えたらハレルヤも何度も繰り返されていた。それは感動的な場面ではあった。
そしてもう一つ驚いた事。観客の中の数名がまさにそのハレルヤが繰り返されるの聞いて立ち上がったこと。しかも胸に手をあてながら。なるほど、これは宗教音楽だから、そういうこともあるのだ。しかし、これはクリスチャンの数名の人が感極まって立ち上がったのか、それとも本来は立ち上がるのが決まり事なのか。誰かを教えてほしいものだ。アメリカでは国旗掲揚、国歌斉唱の時に皆立ち上がり胸に手をあてる約束になっている。同じようなことがハレルヤの感動的な場面では必然とされるのだろうか。しかしほとんどの人は普段着の人たちばかり。座ったままだった。僕などはクリスチャンでもないのにネクタイをはめてきたのだが、普段着の日本と高尚な西洋の宗教音楽が結びついたひとこまは確かに軽井沢130年を記念すべき光景ではあった。
2015-02-11 Wed
私自身も3月生まれだが、私の周辺には誕生日を迎える人が複数いる。その1人は川田政 甫さん。川田さんは私の大先輩だが、実はつい最近亡くなられた。私の職場はラジオジャパン、NHKの国際放送であった。現在でもいくつかの言葉で放送しているがその最盛期に比べると、少なくとも英語放送については見る影もない、と言わざるを得ない。
少し背景をいうと、別のところにも書いたし、すでにご存知かもしれないが、ラジオジャパンの前身は、戦前のラジオ東京であった。知る人ぞ知る東京ローズはラジオ東京のアナウンサーであった。
しかし戦後のラジオジャパンは戦前のラジオ東京と一線を画し、日本の戦意高揚等と言うことではなくて、日本をよりよく知ってもらうために海外に放送する広報機関に生まれ変わったのでである。
かといって放送のメディアは相変わらず短波放送であったし、戦後放送が再開した時は昔のラジオ東京が利用したNHKの放送会館のほぼ同じようなスタジオから放送をしていた。
戦前のラジオ東京が一旦廃止となったとき、ほとんどの従業者はその時点で解雇ないしは他の業務に振り分けられたため、戦後の国際放送は極めて例外的なケースは別として、全く新しい体制の元で放送を再開した。
戦前と同じく、その中心は英語の放送であったが、その当時のいわば一期生として雇い上げられたのが、私の先輩の川田さんであった。もちろん他にも複数のすばらしい先輩がいたが、川田さんは特別な存在であった。それはまず抜群の英語力、次にアナウンス力。そして後にも先にも日本人としては無比の、すばらしい低い、暖かい、バリトーンの声であった。
川田さんは戦後のラジオジャパンを代表する声、ボイスジャパン、日本の声だったのである。川田さんについては思い出すことがたくさんあるが、まずは3月誕生の大先輩として彼の存在を讃えたい。
ご冥福を祈ります。
2010-09-08 Wed
今年(2010年)の終戦記念日に「東京ローズ」は誰だったか、を探訪する番組を「テレ朝」で見た。かれこれ10年ほど前、UCLA日本同窓会のホームページに「東京ローズと私」と題する文を投稿したことがあるが、その後「東京ローズ」は亡くなり、ホームページはアーカイブ化されて一般には公開されなくなった。しかし話題はまだ生きている。
今日この日記を本格的に始めるに当たって、まずはこの一文を再録することにした。歴史に翻弄された一庶民「東京ローズ」に私という越境人間の魂が共鳴したのであろう。改行と若干の言い回しの手直しはしたが、基本的には10年前の感想のままである。
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「東京ローズと私」
豊田 沖人(L&S,MA’71)
「東京ローズ」。第2次世界大戦中、日本から連合軍向けに英語宣伝放送を行った日系二世のアナウンサー、アイバ・トグリ・ダキノ(Iva Toguri D’Aquino)、日本名戸栗郁子のことである。
ロスアンゼルス生まれの彼女は地元の大学在学中の1941年、叔母の病気見舞いに来日したが、12月の戦争勃発により帰国できなくなり、生活のためにタイピストとしてNHK海外局に勤務していた。職場でスカウトされ、連合軍向け宣伝放送「ゼロ・アワー」の放送を行った。当時トグリを含む女性アナウンサーは前線の米軍兵士に「東京ローズ」と呼ばれ、評判になったが、戦後名乗り出たのは彼女一人であった。
アイバ・トグリと私はもちろん面識などないし、まだ生きていれば高齢の日系二世の女性と終戦の年に日本で生まれた私との間に共通項などあるはずがないと思われるかもしれないが、実は二つ有る。
そのひとつは、戦前彼女が放送した「ラジオ東京」で、ここはついこの間まで私が勤務していたNHKの短波放送「ラジオ・ジャパン」の前身にあたり、私にとって彼女はいわば職場の「大先輩」なのである。
戦前の放送があからさまな対米プロパガンダであり、戦後の放送が国連憲章にのっとった国際親善のためのものであるという大きな違いを除けば、英文ニュースや番組を短波で放送するという仕事自体はほとんど変わっていない。アイバ・トグリが戦前放送していた内幸町のNHK放送会館も、私が入局したてのころはまだ残っていて、時代こそ違え「東京ローズ」と同じ建物で仕事をしていたことになる。
そして、さらにもうひとつの共通項は、まさにこのUCLA日本同窓会と関係があるわけだが、「東京ローズ」、アイバ・トグリはカリフォルニア大学ロスアンゼルス校の卒業生であり、彼女は大学の大先輩にあたるわけなのである。
共通項はそれで終わりである。
しかし、もうひとつだけ思い出すことがある。実は在職中、放送開始40周年の記念番組に彼女に出演してもらおうと一度だけ周辺をアプローチしたことがある。「東京ローズ」の著書もあるドウス昌代氏を上司に紹介してもらい、アイバ・トグリのご両親(一世であった)が経営するシカゴの食品雑貨店に出演交渉の電話をしたのである。
国際電話が繋がった瞬間、もしご本人が電話口に出られたら何と言おう、と胸がどきどきしたことを覚えている。しかし実際電話口に出られたのは、ご兄さまと思しき方で、用件をお話したところ「本人はもう何も言うことは無い、出演は受けられない」とにべもなく断られた。大いに落胆したことを思い出す。戦犯の汚名を着せられた経緯からして、「口は災いの元」と堅く誓われたのであろう。NHKの昔の職場から同じ短波放送のメディアで、自由に自分の言い分を述べてもらおうと言う企画は、幻に終わった。
戦時放送史に名が残る「東京ローズ」。一方、戦後の平和の時代、26年間の放送人生を一英語アナウンサーとしてつつがなく終えることが出来た私は、無名ではあったが幸せでもあった。そして組織の中のアナウンサーの役割を良く知っている身には戦後「東京ローズ」として名乗り出たアイバを待ち受けた禁固10年、罰金1万ドル、さらにアメリカ市民権剥奪の判決は、あまりにも過酷であったように思える。
しかし1977年、フォード大統領の特赦によりアイバ・トグリは市民権を回復。アメリカの正義を遥か日本からかいま見ることが出来た私は、安堵の胸をなでおろしたことである。
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真の「東京ローズ」は誰だったのか。当時9名いた女性アナウンサーの中で、薫り高い「rose」という名に値する人は別人だというのが終戦記念日の番組の主張で、アイバ・トグリは冤罪を被ったということになる。
歴史上に名を残すことと引き換えに「東京ローズ」が失ったものはあまりに大きい。庶民は「普通の人」であることを喜ぶべきなのであろう。
(2010年現在、NHKの海外放送はテレビの時代に入ってざっと2年になる。短波放送は形骸化しつつあり、「ラジオ・ジャパン」はNHK World TVに生まれ変わろうとしているのである。)
2009-10-15 Thu
この日記は越境人である自分の周辺のことを扱うものです。