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Author:okitot
短波時代の英語アナウンサー。NHKの国際放送ラジオジャパンで25年間ほどニュースを読んでいました。そのご縁で現在NHK World TVインターネット放送のHP更新のお手伝いをしています。

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水庭 進氏ご逝去
NHKラジオジャパンの大先輩。ラジオトウキョウ時代の最後の生き証人であり卓越した英語アナウンサーであった水庭進さんが、去る6月14日に亡くなられました。93歳でした。水庭さんは優れた俳人、辞書編纂者、エッセイストでもありました。ご冥福を祈ります。
水庭さんは生前葬を大分前にやっておられ、水庭さん逝去の報は一応元英語アナウンサーに知らせるべきということになりました。
ところが、パートナーであった喪主の方が、いろいろ呼びかけているうちに次第に親族その他の方々も参加することになり最終的には50人ぐらいの方々が 6月28日(水)のお別れの会に参列されました。新宿落合斎場にて火葬終了後、参加者は送迎バスで墓地のある真言宗安養院へ。そこで法要、納骨を行い、その後院内で会食いたしました。
安養院の平井和成住職は火葬会場にもお見えになり読経して故人を見送ってくださいました。
ところで水庭さんの俳句が墓碑に刻まれているのを写真に撮りました。読みとその解説を書き込みます。

渓紅葉  明日は  釣られる  身でも良し   進
(たにもみじ あすは つられる みでもよし  すすむ)
水庭氏のパートナーはこう解説されました。
水庭氏の墓石の句はご本人の解説を直接聞いたことがあります。
お元気な頃はよく只見(地名)の方の会津の谷を釣りまくって 居られたようです。渓流釣りは独りで行った方が 釣れますし、足場が悪かったり 崖をのぼったり 急流を横切ったり、結構危険な場所が多いのです。 それを猿のようにスルスルツ、と平気で山肌を登りくだりしておられました。
そのすばらしい渓谷を シーズンの初めの春先から 秋に釣りが禁止になる迄 暇さえあれば単独で夜っぴて スバルを走らせ 明け方を狙って釣りまくっていたようです。
”この句は 秋釣りに行くと… 燃えるような会津の渓間の紅葉がそれは美しく、すばらしい。
この美しい渓流で自分に釣られてヤマメやイワナたちは 命を奪われてしまっているけれど、
こんなにも美しい大自然の紅葉の中で 生涯を閉じることができるのなら あのヤマメやイワナたちのように明日釣られて死んでも悔いはない。”
墓石の俳句を書いてくださったのは 水庭氏の小学校のときからのガールフレンドで 水庭氏より10日年上の用賀にお住まいの方だそうです。 病弱のため生涯結婚もなさらなかったそうで、この度も出席できなかったのですが、水庭氏の生涯の友人だとのこと。まさに墓碑にぴったりの俳句でした。

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日記 | 16:16:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
軽井沢大賀ホールクリスマスデー
12月25日日曜日、軽井沢大賀ホールで鈴木雅明指揮の「メサイヤ」を観劇。2016年はそろそろ終わりに近づいているが、今年の軽井沢は特別の年だ。そもそも軽井沢を発見した牧師アレキサンダー•・クロフト・•ショーが初めて軽井沢に現われて130年、そして彼の生誕から170周年でもある。ヘンデルのオラトリオは全曲演奏。洋楽に詳しくない自分がコメントする筋合いでは無いが、さすがよい音響で知られた大賀ホール。全体的に素晴らしかったと思う。
しかし驚いたことが2つ。
実は使用されていた歌詞は全部英語だったこと。そして途中それがはっきりわからなかったこと。僕のような「英語屋」がこのお粗末。しかし手元に案内でもない限りなかなか聞き取れないのがこのような音楽で、帰りにやっと手に入れた英語歌詞を見てあっと驚いた。誤解の理由の一つには先入観がある。つまり、 さぞこのような曲はドイツ語であろう、など。もう一つは歌詞が古い英語であった事。キング・ジェイムス聖書のような古い訳を使ったと思われる。特徴としてYouの代わりにTheeとかThouが使われているなど。しかし、はっきり分からないにしても英語のように思ったところが数か所あった。これが面白いのだけれど、途中で聞こえてきた言葉。Peace on earth など。そしてさらにHe was despised。このくだりでははっと思った。キリストは当時の人たちから蔑まれたと言うことが歌われているのだ。しかし何度も繰り返されてやっとわかったのである。引き伸ばされると現在の英語とは違って聞こえる。そして関連で分かった事。どうやらオラトリオなどというものの歌詞の特徴は何度も同じことを繰り返していること。考えたらハレルヤも何度も繰り返されていた。それは感動的な場面ではあった。
そしてもう一つ驚いた事。観客の中の数名がまさにそのハレルヤが繰り返されるの聞いて立ち上がったこと。しかも胸に手をあてながら。なるほど、これは宗教音楽だから、そういうこともあるのだ。しかし、これはクリスチャンの数名の人が感極まって立ち上がったのか、それとも本来は立ち上がるのが決まり事なのか。誰かを教えてほしいものだ。アメリカでは国旗掲揚、国歌斉唱の時に皆立ち上がり胸に手をあてる約束になっている。同じようなことがハレルヤの感動的な場面では必然とされるのだろうか。しかしほとんどの人は普段着の人たちばかり。座ったままだった。僕などはクリスチャンでもないのにネクタイをはめてきたのだが、普段着の日本と高尚な西洋の宗教音楽が結びついたひとこまは確かに軽井沢130年を記念すべき光景ではあった。

テーマ:合唱団 - ジャンル:音楽

日記 | 18:54:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
川田さんの事
私自身も3月生まれだが、私の周辺には誕生日を迎える人が複数いる。その1人は川田政 甫さん。川田さんは私の大先輩だが、実はつい最近亡くなられた。
私の職場はラジオジャパン、NHKの国際放送であった。現在でもいくつかの言葉で放送しているがその最盛期に比べると、少なくとも英語放送については見る影もない、と言わざるを得ない。
少し背景をいうと、別のところにも書いたし、すでにご存知かもしれないが、ラジオジャパンの前身は、戦前のラジオ東京であった。知る人ぞ知る東京ローズはラジオ東京のアナウンサーであった。
しかし戦後のラジオジャパンは戦前のラジオ東京と一線を画し、日本の戦意高揚等と言うことではなくて、日本をよりよく知ってもらうために海外に放送する広報機関に生まれ変わったのでである。
かといって放送のメディアは相変わらず短波放送であったし、戦後放送が再開した時は昔のラジオ東京が利用したNHKの放送会館のほぼ同じようなスタジオから放送をしていた。
戦前のラジオ東京が一旦廃止となったとき、ほとんどの従業者はその時点で解雇ないしは他の業務に振り分けられたため、戦後の国際放送は極めて例外的なケースは別として、全く新しい体制の元で放送を再開した。
戦前と同じく、その中心は英語の放送であったが、その当時のいわば一期生として雇い上げられたのが、私の先輩の川田さんであった。もちろん他にも複数のすばらしい先輩がいたが、川田さんは特別な存在であった。それはまず抜群の英語力、次にアナウンス力。そして後にも先にも日本人としては無比の、すばらしい低い、暖かい、バリトーンの声であった。
川田さんは戦後のラジオジャパンを代表する声、ボイスジャパン、日本の声だったのである。川田さんについては思い出すことがたくさんあるが、まずは3月誕生の大先輩として彼の存在を讃えたい。
ご冥福を祈ります。

日記 | 08:42:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
父豊田栄次郎の沖縄からの手紙
今日は特別の日です。戦死した、父豊田栄次郎が沖縄から母へ書き送った手紙をアマゾンの電子書籍として出版する事が出来ました。
 
父と母が結婚したのは、太平洋戦争も終わりに近い、昭和十九年一月。すでにシンガポールで足を負傷していた父には二度の出征はないはずでしたが、戦争が熾烈さを加える中、半年にして再び召集され、沖縄に赴任しました。新婚早々にして父母は別れ別れになり、生きて再び会うことはありませんでした。
 
そのような緊迫した状況の下にも関わらず、父は遥か東京の新妻と生まれ来る子を思いやる気持ちを、淡々とそして愛を込めて書き綴っています。70年近い歳月が過ぎましたが、この機会に亡き父の手紙を読み直すことができ、まさに感慨無量です。

今、この平和な日本に暮らせる幸せを、父よ、そして母よ有難う。

この本には、甲府からの第一信から翌年三月十一日付けの最後の手紙、そして母の母へ当てたもの一通が収録してあります。

アマゾンの 電子書籍は「沖縄より愛を込めて〜戦場からの手紙」として出版しました。

未分類 | 22:18:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
対馬のご縁 ― 津島恵子さんと豊田家
対馬のご縁 ― 津島恵子さんと豊田家

『清そな演技で映画「七人の侍」など日本映画の数々の名作に出演、テレビドラマでも活躍した女優の津島恵子さんが、胃がんのため今月1日、東京都内の病院で亡くなりました。86歳でした。』と携帯にNHKの速報が入っていた。

若い人は知らないかもしれないが、ある年齢以上の人ならだれでも知っている大女優だ。

子供のころ映画ロケ中の津島恵子さんを見たことがある。本郷西片町の戦火を免れた陸橋の上で、出征する息子を見送る母親の役を演じていたが、橋の上に再現された戦前の一こまに目を見張った。私の父は戦死したので他人事とは思えなかった。

ご冥福を祈る。

ところで、ご縁は実はもっと深い。なにしろ彼女は豊田の遠縁なのだ。

津島さんの実家は倉成と言って対馬の名家だが、祖父豊田福太郎も同じ対馬厳原の生まれで、倉成家とは遠縁であった。津島という名前は出身地の対馬にちなんでつけられたということは、亡くなった伯父豊田泉太郎から聞かされた。 余談だが、父方の伯母、叔母は皆整った二重まぶたの美人で、写真の津島さんにとてもよく似ている。

津島さんのデビュー作は1947年の松竹映画「安城家の舞踊会」。原節子主演、先日亡くなった新藤兼人脚本執筆、と映画史に残る名作だが、伯父は関係者と知り合いであったため遠縁で美人の津島さんを紹介したとも、付き添いとしてスタジオに行ったとも聞かされたことがある。

すべての関係者が亡くなってしまった今、詳細は確認の術もない。

ところで、不勉強な私が今このブログを書くなかで遅ればせながら理解したことは、この映画が伯父にとってはなはだ皮肉な内容の作品であったことだ。

「安城家の舞踊会」はチェーホフの「桜の園」を基にしている、とあるが、伯父はちょうどこのころ戦前祖父が築いた朝鮮半島の資産を一挙に失ったはずである。遠縁のよしみで、はからずも資産家の没落がテーマのこの映画にかかわることになったとは、まさに「人生の皮肉」の一コマではある。

戦前の伯父泉太郎は作家堀辰夫とも親交のある、詩人阿比留信であった。伯父について、また祖父福太郎と朝鮮半島の豊田の遺産についてもいずれ書くことがあろう。


未分類 | 16:00:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
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